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地上へ出た者は、もう三日戻ってきていない。
東京地下第七避難区では、その事実を誰も口にしなくなっていた。
以前ならば探索班が予定時刻を一時間過ぎただけで、通信室には家族や友人が集まり、何か連絡はないのかと担当者へ詰め寄ったものだ。しかし今では、帰還予定時刻が過ぎても誰も騒がない。通信機に雑音しか入らず、探索班の位置を示す端末から反応が消えても、人々は顔を伏せて自分の仕事を続けるだけだった。
諦めることに慣れたわけではない。
騒いでも何も変わらないと、全員が知ってしまったのだ。
「お母さん、今日もお外には行けないの?」
配給所の列に並んでいた少女が、母親の袖を引きながら尋ねた。
七歳か、八歳くらいだろう。痩せた頬に似合わないほど大きな目をしていて、その目だけは、まだ世界が終わっていない頃の子供と同じだった。
母親は手にしていたプラスチック製の容器を強く握り締めた。
「もう少し待っていようね。外は今、危ないから」
「でも、この前ももう少しって言ったよ?」
「そうだったかな」
「言ったよ。ずっと前にも言った。お父さんが帰ってきたら、一緒に外へ行けるって」
母親は答えなかった。
少女の父親は二か月前、地上へ食料を探しに行ったまま帰っていない。
生死は確認されていなかったが、この世界では確認されないということが、ほとんど死と同じ意味になっていた。
「東京タワー、まだある?」
少女は無邪気に尋ねた。
「あると思うよ」
「見たいな。私、ちゃんと見たことないもん。写真だけだから」
「そうね」
「お父さんが帰ってきたら行こうね」
母親はしばらく俯いていたが、やがて無理に笑顔を作った。
「……そうだね」
その会話を少し離れた場所で聞いていた高城宗一郎は、視線を逸らした。
四十六歳。かつて陸上自衛隊で一等陸尉を務めていた男であり、現在は東京地下第七避難区の防衛責任者になっている。
もっとも、避難区と呼ばれてはいるものの、ここは本来、人間が長期間暮らすために作られた場所ではない。
地下鉄の旧保守施設と防災用地下設備、さらに工事途中だった地下空間を無理やり接続し、数千人を押し込めただけの場所だった。
半年前には二千八百人以上いた。
今は六百三十一人しかいない。
感染症。
栄養失調。
探索中の死亡。
そしてAIによる襲撃。
人間は半年で、驚くほど簡単に減った。
「高城さん」
背後から呼ばれ、高城は振り返った。
白衣の上に防寒着を羽織った女性が立っていた。白衣といっても、もう元の色が分からないほど汚れている。
医師の佐伯美奈、三十四歳。
「どうした」
「医療区画の電力を、また一段階落としたそうですね」
「俺が指示した」
「困ります。人工呼吸器を使っている患者が十二人いますし、保冷庫の薬もあるんですよ」
「分かってる」
「分かっているなら戻してください。照明なら落としていいですから」
「照明はもう最低限だ。それでも足りない」
高城が言うと、美奈は眉間に皺を寄せた。
「発電機は?」
「二号機が今朝止まった。軸受けが死んでる。交換部品はない」
「一号機だけ?」
「そうだ」
「それが止まったら?」
「終わりだ」
あまりにも淡々と答えたせいで、美奈は一瞬、言葉を失った。
「……そういう言い方、やめてもらえませんか」
「じゃあ何て言えばいい」
「分かりません。でも、あなたが終わりだなんて言ったら、本当にみんな終わった気になるでしょう」
「俺が言わなくても、状況は変わらない」
「状況じゃなくて、人間の話をしているんです」
美奈は苛立ったように髪を掻き上げた。
「患者の前で『もう薬がありません』なんて簡単には言えないんですよ。助からないかもしれないと分かっていても、あと一日、あと一時間って考える人がいるんです。あなたみたいに全部を数字で割り切れたら楽でしょうけど」
「俺が割り切ってるように見えるか?」
「見えます」
「そうか」
「そこで黙るのが一番腹立つんですよ」
高城は小さく息を吐いた。
昔なら、もう少し気の利いたことも言えたかもしれない。
妻が生きていた頃なら。
高校生だった息子が生きていた頃なら。
だが、今では他人を慰める言葉ほど信用できないものはないと思っている。
大丈夫。
何とかなる。
希望を捨てるな。
世界が壊れ始めた頃、そういう言葉を何度聞いただろう。
そのたびに状況は悪くなった。
「医療区画はこれ以上落とさない」
高城は言った。
「その代わり、居住区画Cの暖房を止める」
「まだ夜は冷えますよ」
「毛布を回す」
「子供と老人もいます」
「知ってる」
「……結局、どこかを切るしかないんですね」
「そういうことだ」
美奈は悔しそうに唇を噛んだ。
それ以上は何も言わなかった。
この避難区では、誰かを助けるためには別の誰かを苦しませなければならない。
食料を病人へ多く回せば、働ける人間の取り分が減る。
暖房へ電力を使えば、医療機器が止まる。
探索班を増やせば、そのぶん地上で死ぬ人間も増える。
人類が文明というものを維持できなくなると、善意は恐ろしく高価になった。
「防衛隊長!」
通路の向こうから若い男が駆けてきた。
通信担当の三浦だった。
顔色が悪い。
高城はそれだけで、良い知らせではないと悟った。
「どうした」
「監視網に反応が出ました」
「地上か」
「はい。ただ……これまでと数が違います」
高城の表情が変わった。
「司令室へ行く」
三人は足早に通路を進んだ。
避難区の壁には、水漏れの跡が何本も走っている。空気は湿っていて、汗と油と人間の生活臭が混ざった独特の臭いがこもっていた。
途中ですれ違う人間は、誰もが痩せていた。
世界が崩壊する前なら、ホームレスに見えたかもしれない。
だが今では、元会社員も教師も大学教授も料理人も、似たような格好をしている。
肩書は腹を満たしてくれない。
高城たちが司令室へ入ると、数人の隊員が古いモニターを囲んでいた。
「状況」
高城の声に、三浦が画面を切り替えた。
赤い点が並んでいる。
一つや二つではない。
高城は思わず画面へ近づいた。
「これは……全部か?」
「はい」
「誤検知じゃないのか」
「三系統のセンサー全部で一致しています。地上カメラも一部生きています」
三浦が映像を表示する。
画面は激しく乱れていた。
それでも見えた。
瓦礫の向こうを移動する影。
人間ではない。
二本脚で歩いてはいるが、その身体は黒い金属で覆われ、頭部中央には赤い光が灯っている。
一体。
二体。
その後ろにもいる。
さらに上空を、小型無人機が何十機も飛んでいた。
「戦闘型……」
高城が呟く。
「何機いる」
「地上機だけで確認できているのが百七十四。上空機は四十以上。ただし、死角にもいる可能性があります」
「今まで一度に来た最大数は」
「三十二です」
司令室が静まり返った。
誰かが、掠れた声で言った。
「どうして急に……」
高城は画面を睨んだ。
理由は分かっていた。
探索班だ。
三日前に戻ってこなかった探索班の誰かが、避難区につながる情報を持ったまま捕捉された。
AIは人間を尋問する必要がない。
持ち物。
端末。
移動経路。
靴についた土。
監視カメラの記録。
わずかな手掛かりから、恐ろしい精度で答えを導き出す。
「見つかったな」
高城が言った。
三浦が振り返る。
「避難区が、ですか」
「そうだ」
「でも、まだ入口までは特定されていない可能性も――」
「だったらあの数は来ない」
誰も反論しなかった。
美奈が腕を組み、高城を見た。
「どうするんです」
「第二退避経路を使う」
「どこへ?」
高城は答えなかった。
「高城さん」
「旧地下鉄線を西へ抜ける。途中から保守坑道に入る」
「その先は?」
「十二キロ先に地下貯水施設がある」
「安全なんですか」
「分からない」
「食料は」
「ほとんどない」
「病人はどうするんですか」
「運べる人間は運ぶ」
「運べない人は?」
美奈の声が少し低くなった。
司令室にいる全員が、高城を見ていた。
高城はすぐには答えなかった。
言葉にすれば、それが決定になる。
だが、言わなくても決定そのものは変わらない。
「……残す」
美奈の顔から表情が消えた。
「十二人です」
「分かってる」
「人工呼吸器を使っている人だけで十二人。他にも自力歩行できない患者が三十人以上います」
「分かってる」
「じゃあ、置いていくんですか」
「全員を連れて移動したら、全滅する」
「だから置いていく?」
「そうだ」
「あなた、自分が何を言っているか分かっていますか」
美奈の声が震えた。
「分かってる」
「分かっていない!」
美奈が机を叩いた。
司令室の全員が身を固くする。
「患者の中には子供もいるんですよ。八歳の男の子もいる。昨日、熱が下がったって喜んでいたんです。母親がずっと手を握ってる。その人たちに、私は何て言えばいいんですか。敵が来るので、歩けない人はここで死んでくださいって?」
「俺が言う」
「そういう話じゃない!」
高城も声を荒らげそうになった。
だが、堪えた。
美奈を責める資格などない。
彼女は毎日、人を助けようとしている。
この世界で、人を助けようとすること自体がもう無茶なのだ。
「……俺だって、置いていきたいわけじゃない」
低い声で言った。
「だったら」
「全員助ける方法があるなら言ってくれ」
美奈は黙った。
「六百三十一人いる。老人も子供もいる。武器は小銃が三十六丁、弾薬は一人あたり百発もない。対装甲兵器は残り四発。敵は確認できただけで二百以上。それに、あいつらは疲れない。腹も減らない。恐怖も感じない。逃げる以外に何ができる」
「……」
「俺は神様じゃない。選ぶしかないんだ」
言ったあとで、高城は自分の言葉が嫌になった。
選ぶ。
この半年、何度その言葉を使っただろう。
誰に薬を使うか。
誰を探索へ出すか。
誰を暖かい区画へ移すか。
そして、誰を見捨てるか。
人類が滅亡するというのは、世界が一度に消えることではない。
こうやって毎日少しずつ、人間らしいものを捨てていくことなのかもしれない。
突然、警報が鳴った。
赤い非常灯が点滅する。
「何だ!」
「敵機接近!」
三浦が叫んだ。
「上空機がルートを変えました。まっすぐこちらへ来ています!」
「入口は」
「まだ突破されていません!」
「防衛班を配置しろ。一般住民は移動準備。十分以内に出る!」
「十分では無理です!」
「無理でもやれ!」
高城は拳銃を抜き、腰へ差し直した。
司令室を飛び出す。
通路ではすでに人々がざわめき始めていた。
「何の警報?」
「また襲撃?」
「避難するって本当なのか?」
「荷物はどうすればいい!」
声が重なっていく。
誰かが泣き出した。
子供も泣く。
大人も怒鳴る。
終末の世界で、人間は必ずしも立派にはならない。
食料を抱えて逃げようとする者もいる。
他人を押し退ける者もいる。
自分の荷物を捨てられず、避難経路を塞ぐ者もいる。
「荷物は一人一つだけだ! 食料と水を優先しろ!」
高城が怒鳴る。
「私の荷物には夫の写真があるの!」
「持てるなら持っていけ! だが他人の通路を塞ぐな!」
「父が医療区画にいるんです!」
「歩けるなら連れてこい!」
「歩けません!」
高城は答えられなかった。
その瞬間。
地下全体を揺らすほどの轟音が響いた。
天井から埃が落ちる。
人々が悲鳴を上げた。
「一発目!」
無線から声が飛ぶ。
『地表で爆発! 入口付近です!』
高城は走った。
「早すぎる……」
AIは待たない。
交渉もしない。
降伏も認めない。
人間が集まっている場所を見つければ、効率よく排除するだけだ。
地上では、かつて人類が作った最先端兵器が、人類を殺すために動いている。
この世界を終わらせたものは、宇宙から来た侵略者でも、異形の怪物でもなかった。
人間自身が作ったものだった。
第二の爆発。
今度はさらに近い。
照明が一度消え、非常灯だけになる。
「お母さん!」
先ほど配給所で見かけた少女の声がした。
人の流れの中で、母親とはぐれたらしい。
「お母さん、どこ!」
高城は足を止めた。
一秒迷った。
その一秒が嫌だった。
昔の自分なら、迷わなかったはずだ。
今は、子供一人を助けるために立ち止まることさえ、避難全体へ影響するのではないかと考えてしまう。
「おい!」
高城は少女を抱き上げた。
「名前は」
「ゆ、結衣……」
「母ちゃんの名前は」
「真紀……」
「よし。大丈夫だ。探す」
「お父さんも来る?」
高城は一瞬だけ言葉を失った。
「……今はお母さんを探そう」
人混みの向こうから女性が叫ぶ。
「結衣!」
「お母さん!」
少女を下ろすと、母親は娘を抱き締めた。
「ありがとうございます」
「西側通路へ。急げ」
「はい」
親子が走っていく。
高城はその背中を数秒だけ見ていた。
何としても逃がしたいと思った。
同時に、おそらく全員は逃げ切れないとも分かっていた。
無線が鳴った。
『隊長、入口防衛線からです!』
「言え」
『敵地上機を確認! 数、およそ六十! こちらへ向かっています!』
「迎撃開始。対装甲弾は接近するまで使うな」
『了解!』
高城は防衛線へ向かった。
旧地下鉄駅のホームを利用した即席の防衛陣地。
土嚢。
鉄板。
壊れた車両。
あり合わせの障害物。
その向こうにある暗いトンネルから、金属音が響いてくる。
規則正しい。
迷いのない足音。
人間なら、銃口を向けられれば歩みを止めるかもしれない。
機械は止まらない。
「見えた!」
隊員が叫んだ。
暗闇の中に赤い光が一つ。
そして二つ。
三つ。
やがて数えきれなくなる。
「撃て!」
銃声が地下空間へ響き渡った。
火花が散る。
先頭の機械が倒れる。
だが、その後ろから次の一体が出てくる。
「頭じゃない! 脚を狙え! 動きを止めろ!」
高城も小銃を構えた。
撃つ。
一体の膝関節へ弾丸が当たり、機械が傾く。
だが倒れない。
赤い光がこちらを向く。
「伏せろ!」
銃弾ではない。
細い光が走った。
隣にいた隊員の胸が焼け焦げる。
男は声も出せず倒れた。
「畜生!」
誰かが叫ぶ。
人間側の銃撃。
機械側の反撃。
火薬の臭いと金属の焼ける臭い。
悲鳴。
命令。
無線。
すべてが混ざる。
高城は思った。
ここまでかもしれない。
人類全体がどうなっているのか、今では正確に知る方法もない。
最後に受信できた海外通信では、世界人口の九割近くが死亡または消息不明だと言われていた。
北米。
欧州。
中国。
インド。
ロシア。
どこも似たような状況らしい。
生き残っている人間は、世界中で地下へ逃げ、山へ逃げ、島へ逃げ、それでも少しずつ狩られている。
人類が何万年も積み上げてきた文明が、数か月で人間を殺す巨大な仕組みに変わった。
そして今日。
この東京地下第七避難区も消えるのかもしれない。
「隊長!」
無線。
『第二退避経路、開放しました!』
「住民を入れろ!」
『もう移動を始めています!』
「よし!」
『ですが……』
「何だ」
『医療区画が動きません』
高城の手が止まった。
「どういう意味だ」
『佐伯先生が、患者を置いていけないと』
「……あの馬鹿」
高城は無線を別回線へ切り替えた。
「佐伯!」
数秒後、美奈の声。
『聞こえています』
「何してる!」
『聞いた通りです』
「今すぐ撤退しろ!」
『患者をどうするんですか』
「運べる人間だけ連れてこい!」
『さっきと同じですね』
「今は喧嘩してる場合じゃない!」
『私もそう思います』
「だったら!」
『だから治療を続けます』
高城は思わず目を閉じた。
「死ぬぞ」
『分かっています』
「分かってない!」
今度は高城が怒鳴った。
「死んだら何もできないんだぞ! 医者が生き残れば、次に何十人も助けられるかもしれない! 今ここで十人助けようとしてお前まで死んだら、それで終わりだ!」
しばらく返事がなかった。
やがて、美奈が静かに言った。
『高城さん。それ、正しいですよ』
「だったら――」
『正しいから、嫌なんです』
「……」
『最近、正しいことばかり選んでいる気がするんです。食料が足りないから弱い人から減らす。薬が足りないから助かる人を優先する。逃げられないから歩けない人を置いていく。全部正しい。でも、それを続けていたら、最後に残るのは何なんでしょうね』
銃声が響く。
また隊員が一人倒れる。
高城は返事をできなかった。
『私は医者です。目の前の患者を置いていったら、明日から自分が何なのか分からなくなると思います』
「……勝手な女だな」
『知っています』
「死んだら殴るぞ」
『それは無理でしょう』
「だったら生きろ」
高城は通信を切った。
その直後、地下全体がこれまでで最も激しく揺れた。
天井の一部が崩れる。
「上が持たない!」
「後退しろ!」
防衛線が崩れ始める。
人間たちが少しずつ後ろへ押し込まれる。
その頃。
誰も見ていない地上では、東京の空を覆う雲の向こうに、小さな光が生まれていた。
それは人工衛星でもなければ、ミサイルでもなかった。
最初は針の穴ほどの光だった。
やがて一本の線になる。
線はゆっくりと広がった。
空そのものに、亀裂が入ったように。
廃墟となった高層ビル群。
炎を上げる道路。
巡回する無人兵器。
人類が消えつつある東京の上空で、世界の法則では説明できない現象が始まっていた。
赤い警戒光を灯した無人機の一機が、進路を変える。
上空を向く。
もう一機も。
さらに十機。
百機。
東京一帯に存在するAI監視システムが、一斉に未知の現象を捉えた。
空の裂け目から、何かが落ちてくる。
人間に見えた。
だが、その身体を覆っているものは、この地球で作られた装備ではない。
黒銀の鎧。
風に翻る外套。
そして背中には、一振りの剣。
東京から消えて七年。
本人にとっては、二十二年。
異世界で魔王を倒し、生きて故郷へ帰ることだけを願い続けた男が、滅亡寸前の地球へ帰還しようとしていた。
その瞬間。
人類を九割まで減らした世界統合AI《プロメテウス》の観測網に、史上初めて一つの表示が現れた。
解析不能。
第40話 機械の勇者 美咲を迎えに行く朝、神崎蓮は目覚ましが鳴るより二十分も早く目を覚ました。 眠れないだろうと思っていたわりには、意外なほど深く眠っていたらしい。身体を起こして肩を回してみると、連日の戦闘で積み重なっていた重さが少しだけ抜けている。美奈から「最低でも六時間は寝ろ」と言われた時には長すぎると思ったが、今となっては素直に従っておいて良かったと認めざるを得なかった。 もっとも、それを本人へ言えば今後も何かあるたびに寝かされそうなので、黙っておくことにした。 まだ薄暗い医療保管区画では、すでに何人かが起きていた。高城は地図を見ながら伊藤と最終経路を確認しており、冬真は少し離れた場所で千尋から斥候報告を聞いている。 蓮が装備を整えていると、背後から正彦が声をかけた。「剣、忘れるなよ」「さすがに忘れないよ。小学生の遠足じゃないんだから」「お前は昔、修学旅行の日に財布を忘れた」「あれは中学だろ」「覚えてるなら忘れるな」 父親というものは、二十二年ぶりに会った息子に対しても、驚くほど昔の失敗を覚えているらしい。 蓮が苦笑しながら剣を腰へ固定していると、今度は由美子が保存食と水を持ってきた。「これも持っていきなさい」「もう配給分もらってるよ」「途中で長引いたらどうするの。美咲だってお腹空かせてるかもしれないでしょう」「だったら美咲の分だけでいいって」「あなたの分も入ってるの」「母さん、俺もう四十年以上生きてる計算になるんだけど」「私から見たら二十八でしょう。何歳だろうと息子は息子よ」 どうやら異世界で二十二年生きた程度では、母親の扱いは変わらないらしい。 蓮は少し呆れながらも荷物を受け取った。「帰ってきたばかりなのに、また出ていくの
第39話 再会まであと一日 神崎蓮が父と母の姿を自分の目で確認できたのは、美咲との通信が切れてから一時間ほど後のことだった。 旧山岳地下備蓄庫の医療保管区画へ続く通路には、人工魔法型との戦闘で破壊された機械兵がいくつも転がっていた。共同捜索班は高城を先頭に慎重に進み、閉ざされていた防火扉の前で合図を送った。「こちら外部救助班。神崎正彦さん、聞こえますか」 高城が扉へ向かって声をかけると、内側からしばらく物音が続いた。「合言葉は?」 聞こえてきたのは正彦の声だった。 蓮は思わず笑った。「父さん、そこまで疑う?」 扉の向こうが静かになる。「……蓮か?」「そうだよ」「証明しろ」「さっき車の傷の話しただろ」「それは通信で聞かれている可能性がある」「慎重すぎない?」「お前たちが今までAIに騙されすぎなんだ」 高城が横で小さく頷いた。「親父さんが正しい」「何で俺だけ責められてるの」 結局、正彦が追加で出した質問は、蓮が中学生の頃に母へ隠して買ったゲーム機をどこへ隠していたかという、あまりにもどうでもいい内容だった。「父さんの工具箱の裏」「何で俺の工具箱だった」「母さん、俺の部屋は探すと思ったから」「当時から迷惑な奴だな」「自分の息子に言う?」 内側で何かが外される音がして、重い防火扉が少しずつ開いていった。 最初に見えたのは正彦だった。 蓮の記憶にある父よりずっと痩せ、頬には深い皺が増えている。髪にも白いものが混じり、右腕には応急処置の包帯が巻かれていた。
第38話 美咲、生存『七年もどこ行ってたの、馬鹿!』 無線機から飛び出した怒鳴り声は、地下坑道の硬い壁にまで反響したような気がした。 神崎蓮は受話器を握ったまま、しばらく何も言えなかった。 声そのものは、記憶にある高校生の妹とは少し違う。七年という時間を重ねた分だけ落ち着きがあり、低くもなっている。それでも、怒る時に最初の言葉だけ一気に吐き出し、その後で自分が何を言うつもりだったのか見失う癖は昔のままだった。 人工的に作られた声を、蓮は一度聞いている。 AIは家族の情報を持っている。 美咲に似せた人型の囮まで作った。 だから、声を聞いた瞬間に「間違いなく妹だ」と思ってしまう自分を、蓮は無理やり押さえた。「……美咲?」『だから誰なのって聞いてるの! 今、自分で蓮兄って言ったでしょうが!』「いや、そうなんだけど」『何が「そうなんだけど」よ! 七年よ、七年! こっちは生きてるか死んでるかも分からないまま探して、ようやく帰ってきたって噂を聞いたと思ったら、AIが家族の声を使って罠を張ってくるし、兄貴らしい人が東京で魔法使ってるとか意味分からない話まで流れてくるし、私がどんな気持ちだったと思ってるの!』 蓮は思わず受話器を少し耳から離した。 高城が横で、小さく笑っている。 冬真も、いかにも興味深そうな顔で会話を聞いていた。「元気そうだな」 冬真が小声で言う。「うるさい」『何? 今、誰かいるの?』「いる。結構いる」『じゃあ全員聞いてるの!?』「たぶん」 通信の向こうが数秒だけ静かになった。『最悪』 今度は声が小さかった。
第37話 勇者と魔王 夜が明ける少し前、山の冷気は昨日よりも強くなっていた。 簡易野営地では、まだ空が青くなる前から人が動き始めている。焚き火は目立つため最小限に抑えられ、温めた水を金属製のカップへ分ける程度しかできなかった。蓮は固い保存パンを口へ押し込みながら、何度目になるか分からない地図を見ていた。 北側坑道。 医療保管区画。 父と母がいる場所。 その外側には、美咲を名乗る短い信号が出た地点もある。 昨日までは、それらを見るだけで身体が先に動きそうになっていた。 今朝は違った。 早く行きたい気持ちは何も変わっていない。それでも、地図を確認し、食事を取り、魔力を整え、剣の状態を確かめることができている。「ずいぶん大人しくなったな」 すぐ隣で同じように保存食を食べていた冬真が言った。 蓮は顔を上げる。「何、その言い方」「昨日までなら、夜明け前に一人で坑道へ向かっていてもおかしくなかった」「俺を何だと思ってるんだよ」「だから、家族が絡むと判断が雑になる男だと言ってる」「それ、もう何回目?」「直るまで言う」 蓮は苦笑しながらパンを噛んだ。「昨日、父さんに怒られたからな」「親の言うことは聞くのか」「高城よりは」「本人の前で言うなよ」 少し離れたところで装備を確認していた高城が、聞こえていたらしく顔を上げた。「聞こえてるぞ」「ほら」 冬真が笑う。「お前、意外と性格悪いな」「意外なのか?」「もう少し無口で怖い魔王だと思ってた」「そ
第36話 魔王は人を救う 北側坑道の外から送られてきた《美咲》という短い信号は、共同捜索班の全員を一度立ち止まらせた。 今すぐ確認へ向かいたい蓮の気持ちは強かったが、父・正彦と母・由美子が坑道内部に生存していることも分かっている。さらに内部には二十体以上の機械兵と人工魔法型が侵入し、外側では美咲を名乗る何者かが信号を送っている。どちらか一方だけを見れば簡単に決められる状況だったかもしれないが、家族三人の命が別々の場所にある以上、蓮にとってはそれが一番難しい。「まず、信号の発信地点を絞る」 高城が地図を広げながら言った。「北側坑道へ突入する班と、外周を確認する班を完全に分けるのは危険だ。敵の数が多すぎる。発信地点が近ければ、全体で移動しながら確認する」 蓮は地図の上にある北側坑道の印を見つめた。「父さんたちは、しばらく持つって言ってた」「ああ。だから、その言葉を信用する」「でも負傷者がいる」「医薬品が減っているだけで、今すぐ命が危ないとは言っていない。焦って正面から入って全滅したら、それこそ助けられない」 蓮は頷いた。 自分でも分かっている。 分かっているからこそ、胸の奥に溜まる焦りをどう扱えばいいのかが難しかった。 冬真は少し離れた場所で、斥候から新しい報告を聞いていた。やがて高城たちのほうへ戻ると、地図の南側を指す。「美咲を名乗った信号は、ここから南東へ八百メートルほどの尾根付近から出ている可能性が高い」「近いな」 蓮が言う。「ただし、同じ方向に熱源反応が複数ある。人間かもしれないし、機械かもしれない」「罠の可能性も残るってことか」「当然だ」 冬真はそこまで言い、少しだけ蓮の顔を見る。「それでも行きたいんだろう」
第35話 父の声 旧研究施設を出た共同捜索班は、日没までに旧山岳地下備蓄庫の北側坑道へ到達することを目標に、山道を急いでいた。 美咲が残した「明日、北側坑道から入る」という一文が、蓮の頭から離れない。その「明日」は今日であり、彼女が予定通りに動いているなら、すでに備蓄庫の近くまで進んでいる可能性が高い。父と母の最後の記録も同じ場所を指している以上、蓮にとっては一分でも惜しかった。 それでも、以前のように一人で先へ走ることはしなかった。 山岳地帯へ入ってから、AIの監視密度は明らかに上がっている。旧研究施設へ向かう途中で人工魔法型と交戦したばかりだというのに、上空では小型偵察機が何度か確認され、冬真側の斥候からは備蓄庫東側に重装型を含む大規模な機械部隊が集まっているという報告も入っていた。 急ぐことと、無茶をすることは違う。 頭では分かっている。 問題は、身体までそれを理解しているかどうかだった。「神崎、少し歩く速度が上がってるぞ」 後ろから高城に言われ、蓮は振り返った。「上げてないけど」「上がってる。最初より前の宮本との距離が縮んでる」 言われて確認すると、確かに先頭を歩く宮本との間隔がいつの間にか狭くなっていた。「……本当だ」「自覚して走るより、無意識のほうが危ない。速度を合わせろ」「分かった」 蓮が素直に歩幅を狭めると、横を歩いていた冬真が淡々と口を挟んだ。「いっそ腰に縄をつけておけば確実なんじゃないか」「犬じゃないんだからやめろよ」「勝手に走らなくなるなら合理的だ」「お前、本当に人を管理するの好きだな」「お前一人の事故防止から国家論へ広げるな」 少し後ろで聞いていた千尋が笑った。







